私がこれまで出会った中で一番やり込んだゲームは、真っ黒な空間に浮かび上がった人型のワイヤーフレームが、これまたワイヤーフレームでできたオブジェクトに光線を当てながら、空間の奥底に進んでいくゲームだった。
明示されたストーリーやキャラクターはないので、言葉にするならゲームシステムの説明をするしかないのだが、言葉で説明すると何も伝わらない。
だが、そのゲームの映像や音楽や操作感に私は没頭していた。
その昔文章を書いていた。
内容は主に自分の心のひだを埋めようとするようなものだったと思う。
なぜ文章を書こうと思ったのか。
発端は自分と同じ考え方の人を周りに見つけられなかったからである。
当時の私は周りの人間との価値観のずれや、通念や常識に対する違和感を強く持っていた。
だが自分の気持ちを代弁してくれるコンテンツを見つけられなかったので、自分で一つ一つそういった齟齬や違和感を紐解いて意味を見出し、書き記していった。
書き記しておくことで、どこかの誰かに伝わればいいと思っていた。
誰に求められるでもなく、私は内なる使命感に突き動かされて文章を書いていた。
だが、それは昔の話である。
時は流れ、誰もがインターネットをするようになり、SNSで私は様々な言葉と出会う。
その中には、当時の自分が考えていたことをまさに言い当てているものもあった。
最初はそのことに対し興奮を覚えていた。
だが、次第に自分が考えていたことをもっとうまい表現で主張できる人たちをたくさん見るようになった。
私が文章を書いていたのは私だけが考えていることを言語化して世界に表出させるためだった。
その目的が失われたと感じた私は自分で文章を書く必要性を感じなくなり、文章を書くのをやめてしまった。
等比級数的に増えていく言葉に素肌でまみれたことによる変化はそれだけではなかった。
たくさんの言葉を呑み込む中で私はその言葉を相対化していった。
その相対化があまりにも進んだ結果、私が至った結論は以下の通りである。
「すべては捉え方次第」
色んな人の色んな意見を触れた私は虚無に陥ってしまった。
意味のあるものに意味を感じられなくなる逆転現象が起こったのだった。
ある時から漫画が読めなくなった。
漫画は意味にあふれているからである。
それまで味を感じられていた様々なものに対する味覚を失った。
その状態で意味のある言葉を吐いたり聞いたりすることができなかった。
そこで言語化困難なものに私は逃げた。
無意味な世界をただただ受け入れられるほど私は神経の太い人間ではなかった。
どこかにまだ意味が残っているのだとすれば、それはまだ言語化されていないことだと思った。
下記に挙げる行為はその例である。
以上はあくまで私にとって有効だった行為であり、再現性があるとは言い難い。いつかもし同じような症状が見られる人がたくさんいるならば、より有効な処方箋が処方されるはずである。
きっと私はこれからも意味に対して戦いを挑み続ける。
この無意味な戦いを。