お久しぶりです。
性行為や恋愛に対して関心が薄い、と指摘されているスキゾイドの人間だが、
私個人が数年前に執筆した通り、『性欲が欠如している』という意味ではない。
そこで私は考えたのだが、むしろ正常な人間は何故そこまで
性交を行う事に情熱を注ぐことができるのだろうか? と。
とあるスキゾイドのAという男は、くどいようだがもし意中の女性がいれば、
肌を重ね合わせたいと思うし、アイラブユーと口に出す事も恐れはしない。
では何故、スキゾイドの人間に恋人と言うものは現れないのだろうか?
否。 現れてはいるのである。
スキゾイドの男は、良いな、と思う女性を見る目がないのではない。
ただ、冷静に考えて、どうして恋人というカテゴリが必要なのだろうか?
Aにとって最も理解しがたい感覚はここである。
意外だと思われるかもしれないが、意中の、好意を抱いている
女性に対してコナをかける事は、実は『得意中の得意』なのである。
(人間関係が嫌いなだけで、意思表現は積極的である)
ただし、それは恋人になって欲しいからではない。
「私は貴方の事が人間として好きですよ。」と、伝える事は
スキゾイドのむしろ得意技と言ってもいいぐらいである。
それでは何故、スキゾイドの男は恋人ができないのだろうか。
簡単な事である。 恋人になるべき理由が存在しないからだ。
Aという男は、好意を抱いている女性に食事を奢るなど、
金銭的援助をした事は実は何度もある。 しかし、ついにそれが
実ったという結果は一度もない。 その原因は明白なのだ。
Aは、ビジョンを持っていなかったのである。 確かに、
好意を抱いている女性に好意を示し、親睦を深めた。
だが、それ以上の何かをAは求めなかったのである。
一般的な普通の人間ならば、「メシ奢ったんだから、
お礼として何かしろよ。」とでも渇望を抱くのかもしれない。
しかしスキゾイドであるAは、自分の好意を伝える事に努めており、
それ以上何かを求めようとしなかったのである。
そう。 スキゾイドの人間が孤立する原因はここにあるのだ。
『他人に多くを求めていない』のである。
恋人関係と言うのは、つまりお互いがお互いに求め合う、
持ちつ持たれつという共存関係の事であるとAは理解した。
それはAにとって依存という言葉と同義であるとも感じたのである。
スキゾイドの人間が、恋愛沙汰や性行為に関心が薄いと言うのは、
実は語弊があると思っている。 本当はあるのだ。 ただし、
一般的に恋愛と呼ばれている人間関係は、ただの依存ではないのか?
そう考え始める人間が、スキゾイドという人間なのではないだろうか?
スキゾイドの人間は、人にコナをかけるのは得意であるが、
それ以上の事には貪欲ではないのだ。 それを理解し共感する、
番いの男女であれば、恋人と言うものがスキゾイドにもできるかも知れない。